はじめに

偉業を成し遂げたあの人はいくら稼いでいたのか−−気になる方も多いのではないでしょうか?

そこで、歴史エッセイスト・堀江宏樹( @horiehiroki )氏の著書『偉人の年収』(イースト・プレス)より、一部を抜粋・編集して織田信長、明智光秀、樋口一葉にまつわるお金の話を紹介します。


織田信長の大胆すぎる領地経営

織田信長 は大胆な減税を自分の領民たちに施し、経済を活性化させることによって逆に儲けていたことで知られています。

永禄11年(1568年)、信長は近江の守護大名・六角氏を討ち滅ぼし、その旧領を取得します。この時、信長が領民たちの年貢額=税額として決定したのが「収穫高の3分の1」という数字でした。これは、当時としてはかなり安い割合です。

領主が戦争をする時、領民たちは通常時より高額の税を収めねばなりませんでした。そのため戦争が頻発していた戦国時代末期、各地の税額は高止まりしていたのですが、信長はその真逆の姿勢を貫いたのです。

古代の日本では律令体制が徹底され、土地はすべて天皇のものとされていました。しかし平安時代以降、有力者には荘園の形式で土地の私有化が許されます。中世以降の状況はさらに複雑になりました。荘園の持ち主(=荘園領主)と、持ち主が任命した管理人(=荘管)の両方に、領民は年貢を納めねばならなくなります。そして乱世になればなるほど、“土地の有力者たち”の数は増えていったので、領民の税額も上昇を続けました。

そこで信長は、強大な軍事力を背景に“土地の有力者たち”を排除してしまい、自分の懐に年貢がスルッと入るように設定したのでした。だから税額を下げたところで、信長は安泰なのです。

信長の絶対的支配

近親に与えたものを除くと、信長自身の直轄領はほとんどありませんでした。ただし家臣たちに土地を与えたわけではなく、すべてが「貸与」に等しいものであったのが実情です。家臣が事実上、土地を所有していなかった証拠として、信長は家臣たちに頻繁な国替えを要求しました。栄転でも国替え、左遷でも国替えです。

所領の没収を罰則として行うこともありました。天正4年(1576年)、信長は信頼していた武将・佐久間信盛父子に、「石山本願寺攻め」という大事な仕事を任せます。しかし佐久間父子は石山本願寺の攻略に無残に失敗し、信長自身が朝廷に頭を下げて介入してもらわざるをえませんでした。朝廷に大金を仲介料として支払い、ようやく事を収められたのです。激怒した信長が佐久間信盛父子の所領を没収の上、織田家中から追放、クビにしたことは世間の語り草となりました。

織田家では信長の意向が絶対でした。「石山本願寺攻め」の約1年前、天正3年(1575年)9月、信長は柴田勝家に49万石の「越前国八郡」を与えると同時に、織田家家臣としての領地経営の心得などを記した『九ヵ条の掟書(掟条々)』も渡しています。

これによると信長は柴田に、「私の言っていることに心では『無理非法の儀(=ムチャを強要されている)』と考えているにもかかわらず、その場かぎりの『巧言(=おべんちゃら)』で誤魔化してはならない」と命令しています(太田牛一『信長公記』、括弧内は筆者の補足)。不満があれば伝えなさい、処遇をちゃんと考えてあげるから、とも信長は言うのですが、その後に 「私を敬いなさい」「私に足を向けるな」 などの文面が続くので、実質的な厳命ではありました。

こういう信長に、柴田のような名門出身の武士たちほどスムーズに順応していたのは意外というしかありませんね。

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