はじめに

職人の給料を25%ピンはねした明智光秀

信長の悪業として「延暦寺の焼き討ち」は有名です。しかし、その焼き討ち計画の主要担当者の一人があの 明智光秀 であり、延暦寺攻略に反対どころか、大いに乗り気であったことが史料からは判明してしまっています。

明智がやる気を見せた理由は、計画成功の暁に大幅な増収が約束されていたからでした。延暦寺の収入だけでも、13万石ほどある丹波国+寺領を合わせれば26 万石が信長から与えられる目論見になっていたのです。信長が決めた通り、26万石のうち取り立てる年貢を3分の1としても、 約130億円 。信長は明智にハードワークを課していましたが、支払いに関してはむしろ厚遇していたといえるでしょう。

丹波国の領主となれたことは、彼には大きな喜びだったようです。明智はさっそく自身の居城として亀山城を築かせました。地元の豪族たちから派遣させた110人の作業員には、20日ぶんの食料として米13.7石を支給したといいます。

しかし、この工事現場は支払い面で問題がありました。1日あたりの支給米は6合ほどで、これは8合支給が相場だった戦国時代の賃金相場を 25% も下回る低ギャラだったのです。明智は、本人は大幅に増収したはずなのに、彼の城を築いてくれている者たちを買い叩きました。創作物で彼の人柄は美化されがちですが、史実の明智の腹黒さが反映された金遣いですね。

明智が受けたパワハラ逸話の真偽

ピンはねを信長に知られたら、殴る蹴るの叱責を受けたかもしれません。しかし、それは考えすぎです。信長が明智に行ったとされるパワハラ・モラハラの逸話は多い一方、真実味があるものは実はひとつだけ。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスによる証言です。「本能寺の変」の約1カ月前にあたる天正10年(1582年)5月、徳川家康が信長のもとを訪れました。この時に接待を担当したのが明智だったのですが、準備の際、信長と明智との間に諍いさかいがあったそうです(ルイス・フロイス『日本史』)。

フロイスが聞いた噂によると、「信長はある密室において明智と語っていたが(略)、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にした」のだそうです。

しかし、この噂も「本能寺の変」の直後、明智が世間の同情を買うために広めたものだといわれています。ちなみに江戸時代以降、信長には“モラハラ・パワハラ上司”のキャラが定着してしまいますが、彼が家臣たちに暴力を振るった形跡は、同時代の信頼できる史料には見当たらないのが実情です。

丹波国への愛着が深い明智に、信長が国替えを匂わせたことで反感を抱かれ、それが「本能寺の変」につながった……とする説もありますが、江戸時代の創作物『明智軍記』が出典なので、史実性は低いでしょう。

ただ、こうした逸話にも、ある意味では示唆的な部分があります。信長が得意とした領地経営とは異なり、人の心の取り扱いは数字だけで割り切れるものではありません。原因はいまだ解明されていないにせよ、信長は明智という家臣の待遇を誤ったがゆえ、「本能寺の変」で討たれてしまった。それだけは動かしようのない真実だからです。

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