はじめに

“愛人手当”で食いつないでいた樋口一葉

一葉を翻弄した運命

「明治維新」は武士たちにとっては恐るべき審判の時でした。幕府側につくか、新政府側につくか……その判断次第で、功名をあげる者と没落する者とに運命は分かれてしまったのです。

明治時代の女流作家・ 樋口一葉 の実家も、徳川将軍に仕える御家人の家系です。幕末に駆け落ちで江戸に出てきた元・農民が成り上がったにすぎないものでしたが、直参の武士ではありました。しかし維新後の樋口家は新政府に鞍替えし、有利に生きる道を選びます。

一葉の父である樋口則義は、警視局(現在の警視庁)の役人として高い給料を受け取っていました。当時の公務員はアルバイトも自由だったので、金貸しや不動産業も営み、一葉の兄の泉太朗とともにかなりの額を稼いでいたようです。

ところが一家に相次いだ不幸が、一葉の運命を変えてしまいます。明治20年(1887年)に兄の泉太朗、その2年後には父の則義が亡くなったのです。一葉は18歳の若さで樋口家の世帯主となり、急激に傾いた家運に抗って、母や妹たち家族を養わねばならなくなりました。

半井、久佐賀からの手当

一葉の本名は「なつ」。一葉とは、1枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り、のちに手足を失った達磨大師の逸話にかけたもので、一葉=お足がない=お金がない、との意味だそうです。この名を授けてくれたのが、一葉にとっては運命の恋人であり、文学の師匠でもあった 半井桃水 という男性でした。

半井は当時、文学に力を入れていた東京朝日新聞社の記者で、高給取りのエリートです。明治24 年(1891年)、半井の自宅に押しかけた一葉は、背が高く、色白で筋骨たくましい彼の姿に強い好意を抱きます。

半井からは職業作家になる夢を反対されますが、当時していた縫い物だけでは母や妹たちを養えない、作家という(人気が出れば女性でも男性並みに稼ぐことができる)仕事に私は就きたいのだと一葉は言い切り、彼の弟子となったのでした。

才能はあっても作品にうまく反映できない一葉に、半井は経済的な援助をするようになります。半井の遺族によれば、それは毎月15円でした。当時の1円=現代の1万円程度ですから、換算すると 毎月15万円 ……いや、これはただの援助ではない、愛人手当だと見る研究者もいます。

当時も「あの二人は怪しい」などと囁かれることがありましたが、一葉自身はその噂を全否定しています。半井は寡夫でしたが、内縁の芸者妻がすでにいました。そもそも半井家と樋口家では身分も財力も異なり、一葉が希望する正式な結婚は見込めなかったでしょう。半井との親密な関係は約1年間しか続かず、噂になった時点で彼とは絶交してしまうほどの激烈な反応も見せる一葉でした。

しかし、その後も秘密裏に密会などしていたようですね。半井はのちに手記を発表し「自分は彼女の理想化された恋の一材料」などと淡々としたコメントをしているばかりですが。

一方、一葉の新たなパトロンとなる人物も現れます。占い師・相場師として財産を成していた 久佐賀義孝 です。「相場師の私塾を開くから生徒募集」などと謳った新聞広告を見て、一葉は久佐賀のもとを訪れました。しかし、誕生日占いで「あなたには金運がない」と宣言され、「私の愛人になればお金はあげよう」と持ちかけられると激怒したそうです。一葉は「処女の貞操を汚そうとした」と久佐賀の悪口を日記に書く一方、愛人になってもいないのに毎月15円(= 15万円 )を1年ほどの間、もらい続けることも忘れませんでした。

この当時、樋口家の毎月の生活費は7円。作家としての一葉はまだまだ発展途上で、吉原遊郭の近くに雑貨店を開いたものの、商才がなく稼げませんでした。しかし、男性たちからの“お手当”だけで一家の生活は営めたし、貯金もできた計算になります。

『たけくらべ』『にごりえ』などの代表作は、最晩年の約1年の間に一気に書きあげたものでした。色街に生まれ育ち、そこで仕事をするようになっていく女性の悲しみを描けるようになった一葉の筆致には、独特の陰影と魅力があります。

この時、集中して机に向かえたのも、長らく避けてきた大人っぽいテーマの小説を仕上げられたのも、半井や久佐賀との“交流”から学び、そして彼らからの“お手当”の一部を貯金していたからかもしれません。“愛人業”の末に大成した……おそらくそれが事実なのでしょうが、彼女自身はそれを公には認めませんでした。明治29年(1896年)11月、一葉は肺結核により、24歳の若さでこの世をひっそりと去っています。

物悲しい作風と、写真に残るさみしげな面立ちゆえに、日本の近代文学研究者たちの“アイドル”だった樋口一葉。

思えば、一葉は2004年に5000円札の“顔”に選ばれていました。一葉の前の新渡戸稲造のほうが、いまだに5000円札のイメージが強い気もして、ほかの偉人に比べると影が薄いようにも感じます。お札の顔になったことは、彼女の知名度の押し上げに多少でも貢献したのでしょうか?

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