はじめに

65歳以上の5人に1人は認知症になると言われている現代において、認知症になってしまった方との適切な接し方を知っておくことは重要です。

そこで、長寿日本一の入居者がいる老人ホームの施設長・柴谷匡哉 氏の著書『施設長たいへんです、すぐ来てください!』(飛鳥新社)より、一部を抜粋・編集して実際に起きた事例をもとに感情や心の動きと認知症について解説します。


スーパー〇〇ですが、お宅の入居者が万引きを

窃盗

刑法第39条
一、 心神喪失者の行為は、罰しない。

二、 心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する。

刑法39条は、心神喪失・心神耗弱者の刑について定めています。人が刑罰法規に触れるような行為をしたとき、その人物に対し事件の責任を問うことができるか、刑事責任能力があると言えるかが問題となります

刑事責任能力は、事物の是非・善悪を弁別し、それに従って行動する能力からなり、この能力を欠いてしまっている人に対しては、その行為を非難することができないため、刑罰を科すこともできません。認知症の人が刑事事件を起こした場合、責任能力の判断はこの刑法39条に拠ります。

昨今、テレビや新聞のニュースで、「高齢者の万引きが増えている」と報道されています。でも……実は認知症が原因で万引きを行い、その認知症が刑事裁判で見逃されたまま刑務所に送られていたとすれば、非常に恐ろしいことだと思いませんか?

ケアハウスの事務所に1本の電話がかかってきました。対応した寮母の表情がみるみる曇っていきます。電話を切ると、「施設長たいへんです、緊急事態です!」と慌てた様子で私を呼びました。

聞けば、施設から一番近い大手スーパーの〇〇からの電話で、入居者がお店で万引きをしたので身元引受人に来てほしいという話でした。

今回万引き事件を起こした中野太郎(70歳)さんは、もともと公務員で、身元引受人の長男ご夫婦も公務員という公務員一家です。独り暮らしをされていましたが、今後のことを考えて当ケアハウスにご入居されてきたばかりの、施設でも2番目に若い入居者です。

すぐに身元保証人であるご長男に連絡をとると、スーパーに駆けつけてくれました。こってりと絞られたそうですが、年齢や数百円程度という被害額の少なさもあって、警察には連絡されずにそのまま施設に帰って来られました。当のご本人はケロッとされていましたが、長男夫婦は、「今まで万引きなんてしたことのない真面目な人だったのに」と相当ショックを受けているご様子でした。

詳しく事情を聞いてみると、中野さんは公務員生活47年、物静かで真面目にコツコツと働かれ、定年後は自治会活動にも積極的に参加し、地域のリーダー的な存在だったそうです。そんな中野さんがここ1、2年前から、急に何事にも意欲がなくなり、外出も減ったのだそうです。

また、今まで気にされていた身だしなみ等にも全く構わなくなり、怒りっぽくなったり、粗暴になったりすることもあったそうでした。これらの話を聞いたうえで、私から中野さんの早急な受診を勧めました。私の中に、ある認知症の疑いが頭に浮かんだからでした。

それから1週間、中野さんの受診結果がわかりました。予想していた通り、病名は「前頭側頭型認知症」でした。この認知症にかかると、思考や理性、社会性などに関わる前頭葉と、知識や記憶、感情などを司る側頭葉に障害が生じ、他の認知症ではあまり見られないさまざまな症状が現れます。

社会性が失われ、お店で万引きをする、怒りっぽくなる、周囲の状況に気を遣わなくなる、同じ単語を繰り返す、物をため込む、過食と拒食を繰り返す等、周囲の目や環境を気にしない自分本位の行動がみられるようになります。

また、自分自身や周囲に対して無関心になるなど自発性が低下したり、感情が鈍り他人への共感や感情移入が難しくなることもあります。アルツハイマー型認知症と比べて、前頭側頭型認知症は人格の変化、繰り返し行動、言語機能への障害などが目立ちます。なお、他の認知症の中心的な症状である記憶への影響や幻覚、妄想などの症状はほとんどありません。

中野さんは今回万引きをしましたが、なぜ自分が盗んだのかわからず、まるで夢の中の出来事のように感じたと思います。当然ご本人は、万引きが悪いことであると理解していますから、警備員に捕まると、必死で言い訳したそうです。ここで、ボーッとして応答もできなければ、「この様子はおかしい」となるのですが、言い訳をするので、余計に反省していない悪質な老人だと思われたそうです。

この件以降、警察沙汰にならないよう、スーパーに中野さんが前頭側頭型認知症であることを詳しく伝えましたが、もう来ないでほしいと言われました。一方、ケアハウスとしても、外出を止めるのは難しいのです。

認知症は誰でも直面しうる問題で、もっともっと理解が世間に広がる必要があることと。と同時に医療や福祉、行政が連携していかなければならないことを、改めて痛感したのでした。

対処法

今回のケースは、前頭側頭型認知症の窃盗の問題です。

アルツハイマー型認知症の人も窃盗に至るケースは若干ありますが、お金を払ったかどうか忘れてしまい、商品を持ち出すパターンが多いようです。前頭側頭型認知症は名前の通り大脳のうち前頭葉と側頭葉が特異的に萎縮する病気です。

現在、根本的な治療法や治療薬は開発されておらず、発症すると治すことはできません。治療も行われますが、症状の緩和が目的とされ、症状の改善や進行を止めるものではありません。

万引きなどの非社会的な行為も、自分の物と他人の物との区別がつかないため、悪いことをしたという自覚が全くありません。そのためいくら責められても反省はしませんし、かえって傷ついてしまいます。むやみに責めたりせずに認知症による症状ということを理解しなければいけません。

今回のように認知症の人が万引きした場合、認知症の症状であることに気がつかれないまま、常習累犯窃盗(何度も窃盗を繰り返した際の重い処罰)として懲役刑になってしまうこともありえます。法整備も含めて、なんらかの対策が必要ではないでしょうか?

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