はじめに
家康はまず運河をつくった
江戸入りした家康が江戸城の粗末さに目もくれず、最初にとりかかったのは運河の開削工事だった。そのうちの一つが、「道三堀(どうさんぼり)」の工事だった。
道三堀というのは、現在の皇居の東側、和田倉門前の辰ノ口(たつのくち、パレスホテルのあたり)から大手町交差点を経て日本橋川に合流する長さ1キロほどの水路で、道三堀の名は、のちにこの岸に徳川家の侍医の曲直瀨道三(まなせどうさん、二代目)の邸ができたことからついたものだ。
土木工事には徳川家の家臣たちがかり出されて、大変な苦労のすえにこの運河を掘った。
この運河は江戸前島のつけ根を横切る形に掘ったもので、道三堀の完成によって東京湾の最奥部(日比谷入江の突き当たり)と石神井川(しゃくじいがわ)河口を結ぶバイパスができ、さらに当時の江東地区の海岸線の南側を補強して安定した運河にした「小名木川(おなぎがわ)」を経由して江戸と行徳(ぎょうとく、千葉県市川市)とを直結させたことに大きな意義があった。
長く伝えられた道三堀の名
行徳は、当時の関東最大の製塩地で、道三堀と小名木川の開通によって、塩を安定して運搬できるようになった。
塩は生活必需品であると同時に、貴重な軍需物資でもあったから、その重要性を現代の石油に置き換えれば、道三堀はさしずめ石油のパイプラインといったところだろう。当然、家康にとっては、何をおいても取りかからなければならない緊急工事だったのである。
この運河の完成後は、その両岸に湊(みなと)町ができ、中世からの四日市町をはじめ、舟町、柳町などと、日比谷入江の沿岸にはヤン・ヨーステンに与えられた八代洲(やよす)河岸の細長い町屋も並んだ。築城工事関係の物揚場(ものあげば)も堀の中央の北岸にあった。
ちなみに、この工事の最中に、現場から永楽銭(えいらくせん、中国・明の銅銭。15世紀から主に東国で通用した)の入った瓶(かめ)が出土した話が伝えられている。
それからずっと時代を経た270年近く後の明治5(1872)年のこと、それまで武家地だったこのあたりの土地に、はじめて町名をつけることになった。その時に検討の結果採用されたのが、銭瓶発見の故事にちなんだ「永楽(えいらく)町」「銭瓶(ぜにがめ)町」の名であり、「道三町」であった。
銭瓶の発見が、どれほど長い間人々の記憶に残り、伝え続けられたかがわかる。これらの町名は、それ以後、昭和4(1929)年まで使われていたが、関東大震災後の区画整理と町名変更により消滅し、現在のように千代田区大手町一~二丁目、丸の内一丁目になった。