はじめに
巨大な家臣団で水不足に
道三堀の開削、製塩地・行徳までの沿海運河、最小限の江戸城修築工事とともに、江戸入りした家康が真っ先に手をつけたのが飲料水の確保だった。
もともと江戸は、武蔵野台地と汐入の低湿地に囲まれた場所であるため、まとまった量の良質な水を得るのがむずかしい土地だった。そのような場所に駿河・三河などから約30万人の家臣団が移ってきて、江戸の人口は急増した。
そのため、はじめから飲料水が不足していた。したがって、すべての家臣を江戸に住まわせたのではなく、主な家臣は小田原北条氏の支城などを活用して関東各地の要所に配置し、新たな領国の経営と防備の万全をはかった。小身の(俸禄が少ない)家来は、主に江戸城の西側に住まわせた。城から武蔵野台地に続く場所を旗本で固める必要があったことと、台地の上なら良質な井戸水が得られたからでもあった。
そうした中で家康は、家臣の大久保主水(もんと)に水源の見立てを命じ、自然河川である小石川が利用されるようになった。それが後年、神田上水に発展している。一方、文禄元(1592)年頃から、江戸城修築工事と並行して、飲料用の貯水池である千鳥ヶ淵(ちどりがふち)牛ヶ淵(うしがふち)が整備された。
自然地形を活かして飲料水を確保
この「淵」という言葉はダム湖を意味していた。
現在、桜の名所になっている千鳥ヶ淵は、坂下門付近で日比谷入江に流れ込んでいた旧・千鳥ヶ淵川の谷を、国立近代美術館工芸館の前で堰せき止めてつくられた人造湖である。なお、この谷筋は、本丸(現・皇居東御苑など)と西の丸(皇居)を隔てている。
牛ヶ淵は、武蔵野台地の東縁から湧き出る水を貯水したものである。北の丸公園にある清水門の石垣を急な階段で登ると、上流側の牛ヶ淵の水位が下流側の清水濠(しみずぼり)よりも高くなっているなどダムの痕跡が見られる。
まとまった雨が降ると牛ヶ淵から清水濠に“滝”のように水が落ちる光景も目にできる。
これらの水源確保では、湧水の活用や谷筋の利用など、自然地形が最大限に活かされた。それが短期間に最低限のコストで飲料水を確保する手段だった。
とはいえ、家来たちの苦労は並大抵ではなかった。この時期の工事は、徳川氏の直営で行われたからだ。
家来たちは城の整備に駆り出され、宅地や水さえ自分で確保しなければならない境遇に置かれていたのだ。
たとえば当時の江戸城の普請(ふしん)現場を描いた『聞見集』(万治3〈1660〉年に成立)では、「大雨の日は、掘り上げた土砂が完成した堀に流れ込むため、夜を徹してそれを堰き止めたり、溜まった水を何度も釣瓶(つるべ)でかい出した」「侍たちも中間(ちゅうげん)同様に鍬(くわ)やモッコを持って土木作業に従事した」といった内容が記されており、「辛労筆に盡(つく)しかたく候」という状況であった。