はじめに

株主総会と配当と

海を挟んだ隣国オランダのVOCには、不可解な点があります。じつは組織的な複式簿記が根付かず、秩序だった会計監査や、株主への情報開示が行われなかったのです。当時のオランダでは、イギリスよりもはるかに会計教育が熱心に行われていたはずです。複式簿記を熟知し、その重要性を理解している人がたくさんいたはずです。VOCは役員たちの権力闘争に翻弄されて、最後まで誠実な会計報告ができませんでした。

一方、イギリスは違いました。VOCが世界で最初の「株式会社」なら、EICは世界で最初の「株主総会を行った会社」です。17世紀の半ばから定期的な情報開示が「出資者総会」で行われるようになり、とくに7年ごとに「資本評価」と呼ばれる、網羅的な財務報告がなされるようになりました。資本評価は少なくとも4回(1664年、1671年、1678年、1685年)に行われています。

とはいえ、この資本評価の正確性には、疑問が残ります。

4回の資本評価で開示された各財産の残高を見ると、必ずしも帳簿と一致していません。また、利益の金額も勘定記録から算出されたものとは言いがたいものでした。豊富な史料が残っているので、300年以上前の会社でも、現在の私たちが会計監査できるのです。帳簿以外の原始記録(=契約書や領収書など)から数字を引っ張ってきたのか、それとも財務状況を良好に見せかけるために粉飾を行ったのか……真相は闇に包まれています。

利益計算がアバウトなのは、当時の株主にとって利益金額が(現在の私たちほど)重要ではなかったからかもしれません。現在なら、まず利益剰余金のような配当可能な金額を算出し、そこから配当金を支払います。ところが、当時はまだそんなルールはありません。配当額は必ずしも利益と結びついておらず、恣意的に金額が決められていたようです。

これには理由が2つあります。

第一に、EICではもともと航海ごとに個別企業を立てて、船が帰港するたびに解散・清算していました。航海で上がった利益は、投資額の元本と合算したうえで、投資者の間で山分けしていました。このような配当方法を「分割」といいます。この方法では、詳細な利益計算をしなくても配当が行えます。大雑把にいえば、港に戻ってきた船の積み荷を売り払い、残ったカネを山分けするだけ済みます。

第二に、配当宣言が不定期だったことです。現在に比べて航海技術が未熟だった時代、港に無事に船が戻ってくるまでは、収益を認識することができませんでした。逆にいえば、商船の帰還こそが配当宣言を行ううえで決定的に重要だったはずです。必ずしも元帳を〆切ったときに配当宣言が行われたわけでなかったため、帳簿上の利益金額と配当可能利益計算との関係が希薄でした。

EICのその後

1664年にEICは複式簿記を導入しましたが、その背景には財務状況の悪化があったようです。というのも、それに先立つ1652~54年に第一次英蘭戦争が勃発したからです。海洋国家となったイギリスとオランダの戦争であり、戦場は海上でした。この戦争により貿易が大きく制限され、EICの収益は悪化しました。

さらに社員や船乗りの私貿易も悩みの種でした。EICは貿易を独占する組織だったはずなのに、その社員が密輸出に手を染めるようになったのです。EICは私貿易の根絶を諦め、罰金を徴収することで半ば公認しました。これら収益の悪化や罰金徴収の増加に伴い、財務状況を正確に把握する必要性が増したため、複式簿記が取り入れられたのでしょう。

イギリスとオランダは、その後も第二次英蘭戦争(1665~67年)、第三次英蘭戦争(1672~74年)と、戦争を重ねます。この戦争では双方ともお互いの本土を攻めることは考えておらず、貿易のための航路を奪取することを目標としていました。そのため、戦いは徹頭徹尾、海の上で行われました。

また、この時代には私掠船(しりゃくせん)が活躍しました。国王からの許可を得た、公的な海賊です。敵国の商船を海賊に襲わせることで、相手に経済的なダメージを与えようとしたのです。さらに18世紀の初頭には、どんな国にも属さない海賊たちの黄金時代が到来しました。航海には危険がつきものだったので、どんな商船も大砲で武装し、水夫たちはいざというときは武器を取って戦う心構えを持っていました。

1757年、プラッシーの戦いでEICはフランスの艦隊を破りました。この勝利によりEICはインドの実質的支配権と、ベンガル等の徴税権を手にしました。株式会社のくせに、税金を徴収できるようになったのです。これによりEICは貿易会社から植民地統治会社へと、その性質を大きく変化させたのでした。

■主要参考文献■
中野常男・清水泰洋『近代会計史入門』
小林幸雄『図説 イングランド海軍の歴史』
ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』

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