はじめに
私有地が登場したからこそ、沽券が成立した
余談ながら、沽券の仕組みが登場したことの背景に「私有地の登場」という重要な歴史的トピックが隠されています。
皆さんも社会科などで勉強したと思いますが、日本の律令制において私有地が認められるようになるのは、723年の「三世一身法」(さんぜいっしんのほう)や743年の「墾田永年私財法」(こんでんえいねんしざいのほう)以降のことです。前者は開墾した土地について三世代に亘る私有を可能にする制度のことで、後者はその半永久的な所有を可能にする制度のことです。これらの新制度によって「土地の売買」という新概念も生まれました。
ただ当初、土地の売買は当事者間だけでは行えず、地域を所管する官司にお伺いを立てる必要がありました。そしてその時点では、沽券の仕組みがまだ登場していなかったのです。
実際に当事者間による土地の売買が可能になったのは、平安時代(794年~1185年)の中期以降のことでした。これに伴い、沽券の仕組みも一般化していくことになります。
沽券は「江戸時代」までは一般的だった
証文を意味する沽券にも、いろいろな熟語があります。本稿でもすでに沽券証文、沽券状、沽券手形(いずれも沽券の別名)が登場していますが、これ以外にも沽券が登場する熟語があるのです。
例えば「沽券貸し」という言葉があります。これは沽券(売り渡し証文)を担保とした金貸しのこと。逆にそのようにして借金することを「沽券借り」とも言いました。このような仕組みは中世から存在したようですが、沽券貸し・沽券借りという言葉が成立したのは江戸時代のことだったようです。
また同じ江戸時代には「沽券地」という言葉もありました。これは「町屋敷」の通称だったのだそう。町屋敷の地主(町人)は土地を半永久的に所有でき、それゆえに土地の売買なども自由にできるため、町屋敷が沽券地と呼ばれるようになったようです。
さらに明治時代には「沽券地図」という行政資料も存在しました。明治維新によって土地制度の改革が行われた際、その基礎資料とするために制作された地図を意味していました。かつて沽券に記されていた各種の情報(所有者・面積・価格)が地図上に一覧表示されていました。
このように沽券という言葉は、少なくとも明治時代の初期まで、社会生活の中でそこそこ存在感のある言葉だったのです。