はじめに

複雑化する金融市場、これからのクオンツ

ーーデリバティブ取引に比べるとシンプルな仕事に思えますね。

それが意外とそうでもなくて、違った難しさがあるんです。デリバティブは数学的には難解ですが答えが決まっている分、シンプルなんです。100円のデリバティブを90円で売って10円の利益を得るという明確なゴールがあって、それを達成するためのプロセスを導けばいいわけですから。

これに対し、現在の仕事は数学的にはさほど難しくないのですが、答えのない世界です。上がるか下がるかがまったくわからない中で、ベストな解を導きだしていかなければならないところがデリバティブとの最も大きな違いですね。

たとえば、10万円の資金を預けたお客さまのポートフォリオが40本のETFで構成され、その中のAというETFが10%の割合と設定されているとします。Aが1口110ドルで売買されている場合、計算すると0.9口買うことになりますが(1ドル=100円の場合)、ETFの購入は1口単位なのでそれはできません。そこで単純に四捨五入して1口買うと、今度はお金が足りなくなってしまいます。

現実として取り得る選択肢は、1口買うかまったく買わないかの2択です。本来買いたい口数は0.9口なので、0口よりも1口買うほうが本来のポートフォリオに近づくので、できるだけ買う方向で調整します。こうした問題が40本すべてのETFで起こり得ますし、そもそも投資金額が少ないと40本すべてに投資することも難しくなります。こうした場合に、すべてのETFの取引価格や現金残高などの条件を計算しながら瞬時に最適な判断をして、投資家から預かった金額の範囲内でできる限り目標ポートフォリオに近い売買注文を出すプログラムをつくっているのです。

ーー個人投資家向けビジネスならではの難しさですね。

そうですね。このサービスはまだスタートしたばかりですが、これからお客さまが増えて扱う資金の量が増えてくると、また別の問題が生じてきます。たとえば、大きな注文を一度に出すとその注文によってETFを値上がりしてしまい、お客さまの不利益につながるおそれがあるのです。

こうした場合、注文を取り消すべきか、あるいは小分けにすべきかといった問題が出てきます。仮に小分けに発注して値上がりした場合、残りのオーダーをそのまま出すか、あるいは値下がりするのを待つか。でも、待っていたらさらに値上がりするかもしれません。現状、こうした判断はある程度トレーダーが行っていますが、将来的にはこの判断を適切に自動化できるプログラムをつくり、マーケットに影響を与えない取引を実現させたいと思っています。

ーー今の仕事のやりがいはどんなところに感じますか。

証券会社にいたころは、少数の顧客のために何億何十億という大きなお金を動かしていました。ところが今は、10万円をいかに効率的に運用するかが課題です。億の金額に比べれば10万円は小銭のようなものかもしれませんが、それでも一般の生活者が毎日コツコツ働いて、自らの夢や将来のために当社に託した大切なお金です。

金融の世界は、一部の富裕層だけが持つ情報や彼らだけが投資できる商品も多く、閉ざされた世界であることは否定できません。要は、持つ者と持たざる者との格差があまりにも大きいのです。私は学生時代から、いつか金融を民主化したい、一般の人がもっとアクセスしやすいものにしたいと漠然と夢見ていたので、小額で高度な世界分散投資を提供する今の仕事には大きなやりがいを感じています。

ーークオンツとして立場から、現在の金融市場をどう思われますか。

リーマン・ショックを契機に、金融市場は複雑化していると感じます。資産価値の変動をもたらすリスクファクターが大幅に増え、何を計算するにも算式に組み入れる要素が増えて大変になりました。

金利ひとつとっても、リーマン・ショック以前は「一物一価」のようなシンプルな法則が成り立っていました。たとえば、お金を半年間借りる場合と、3か月でいったん返済して借り直し、3か月後にまた返済するというケースでは、半年間同じ金利で借りているわけですから、同じ計算で済んでいたのです。

しかし、リーマン・ショック以降は、6か月も貸しているケースでは、3か月貸している場合に比べて借り手がより貸し倒れの可能性が高くなることをより考慮に入れた計算をする必要が出てきました。

ーー仕事がより複雑になっているのですね。

かつてのクオンツの仕事は、数学者が理想とするような美しい数式だけでも成り立っていましたが、今や盛り込む要素が多すぎて扱う数式は混沌としてきています。だからといって、考えうるファクターすべてを数式に盛り込めばベストな答えに近づくのかといえば、そういうものでもないのです。これからのクオンツは、本来のシンプルな数式に何を加えていくべきかを判断していかなければなりません。本当に必要なものと、そうでないものを見極める力が求められると感じています。

これまでクオンツは一般の人とはかけ離れた、ある意味特殊な世界で働く人が多かったかもしれません。しかし今後、一般の人に投資のすそ野が広がっていけば、運用系のクオンツの活躍する場が広がるのではないでしょうか。私自身も、投資環境が厳しい時代だからこそ、個人投資家の資産形成をより簡単で身近なものにしていく仕事に力を注いでいきたいと思っています。



東海林紘 Ko Tokairin/2006年、東京大学大学院数理学研究科修了。同年、リーマン・ブラザーズ証券に入社し、デリバティブのモデリングに従事。その後、野村証券、UBS証券を経て2015年より現職。

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