はじめに

2019年(平成31年)4月30日、約30年にわたる「平成」の歴史が終わります。同日、今上天皇が退位され、その翌日「改元」が実施されるのです。

ところで改元には、いまでこそ一世一元(いっせいいちげん=天皇一代に年号を一つだけ用いること)という決まりがあります。しかし長い歴史を振り返ると、改元には実にさまざまな「理由」が存在していました。

そのパターンは主に4つ。まず天皇の交代を理由とする「代始改元」(だいはじめかいげん)、吉事を理由とする「祥瑞改元」(しょうずいかいげん)、凶事を理由とする「災異改元」(さいいかいげん)、暦のうえで凶事が起こるとされる区切りの年(甲子・戊辰・辛酉の年、これを三革と総称する)を理由とする「革年改元」(かくねんかいげん)というパターンが存在していたのです。

このうち祥瑞改元は、初期の元号で登場するパターン。朝廷にキジが献上されたので改元した(白雉=はくち、650年~654年)とか、縁起の良い雲を発見したので改元した(慶雲=けいうん、704年~708年)とか、天皇が泉に入って健康になったので改元した(養老=ようろう、717年~724年)など、さまざまな吉事が存在しました。

そんな祥瑞改元の中に、なんともレアなことに「経済を理由とする改元」が3つだけあったのです(本連載は「お金のことば」がテーマです)。今回はそんなレアな改元を紹介してみましょう。


大宝

大宝(1)対馬国から金が献上された

「大宝律令」(たいほうりつりょう)という歴史用語で知られる「大宝」という元号があります。期間はユリウス暦で701年5月3日から704年6月16日までの約3年間。日本初の本格的な律令制度である、大宝律令の成立を記念して誕生したのが、まさしく大宝という年号でした。

ちなみに大宝以前の元号は恒常的制度ではありませんでした。日本初の元号である大化(645年~650年)以降、白雉(はくち/650年~654年)、朱鳥(しゅちょう、または、あかみとり/686年)、大宝と元号が続いていきますが、これらをよく観察すると「空白期間」が存在するのです(654年~686年、686年~701年)。

一方、大宝以降の元号は(途中、南北朝による分裂こそあったものの)平成に至るまで途切れることなく続きました。つまり大宝は「恒常的な制度となった最初の元号」でもあったわけです。その意味でも大宝は、日本史の中で重要な位置づけである元号でした。

さて大宝への改元理由は、史書『続日本紀』(しょくにほんぎ)に記されています。それによると「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまう」とあります。つまり「対馬が朝廷に金を献上したので、元号の制定を行うこととし、その年を大宝元年とした」と言っているわけです。

大宝(2)献上は「捏造」だった

しかし以上の話には少々おかしい点があります。

日本の鉱山事情に詳しい方なら、お気づきかもしれません。これが「佐渡から金が出てくる」話ならよくわかるのです。でも「対馬から金が出てくる」なんて話は、聞いたことがありせん。対馬に鉱山があったことは事実。しかしながら、その時代に対馬で採れたのは「銀」でした(のちに鉛・亜鉛・銅を産出して、1970年代にカドミウム汚染の影響で閉山した)。

では『続日本紀』にあった「対馬嶋、金を貢ぐ」とは一体何だったのでしょうか?

これについて『続日本紀』がこんな記述も残していました。「後に五瀬(いつせ)の詐欺発露(あらわ)れぬ。贈右大臣、五瀬の為(ため)に誤(あや)またれしことを知る」とあったのです。現代風に言い換えると「のちに五瀬による捏造が発覚した。五瀬に騙されていたことが分かった」となります。どうやら金の製錬技術者であった三田五瀬(みた・いつせ)なる人物が、他所から融通した金を「対馬産」と偽って献上したらしいのです。

当時、日本では金の産出がなく、国外からの輸入に頼っていました。したがって国内での金産出が事実ならば、改元に相応しい慶事でした。しかしそれが捏造であったわけで、なんとも締まりの悪い話となってしまったのです。

これは大宝律令の制定という国家的事業が進行した時代の出来事。対外的にも独立国家としての体裁(法制度や元号制度などの整備)を必要としていた時代の出来事です。筆者は「五瀬なる人物が捏造の主犯だったのかどうか」をつい勘ぐりたくなるのですが、さすがに陰謀論が過ぎるかもしれませんね。

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