はじめに
天平感宝
天平感宝(1)今度は陸奥国から金が献上された
さて日本の元号には、奈良時代の一時期だけ「四文字の元号」が相次いで登場したことがあります。天平感宝(てんぴょうかんぽう)、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)、天平宝字(てんぴょうほうじ)、天平神護(てんぴょうじんご)、神護景雲(じんごけいうん)といった元号が連続して登場したのです。唐の女帝・則天武后(そくてんぶこう、武則天=ぶそくてん、とも)が四文字の元号を好んで制定したことに倣ったものと見られています。
その奈良時代に現れた四文字元号のうち「天平感宝」が、経済を理由とした改元でした。
天平感宝は、ユリウス暦の749年5月4日から同8月19日までという非常に短命の元号です。ちなみに歴代の最短は暦仁(りゃくにん)の2ヶ月14日。最長は昭和で62年14日でした。
その天平感宝への改元理由とされているのが、やはり「金の献上」。749年3月30日、陸奥守(むつのかみ)であった百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)が朝廷に対して金を献上。その翌々月に改元が実施されたのです。これは捏造ではありませんでした。
天平感宝(2)大仏の原料が足りない
金の献上が慶事とされたことには、ひとつの重要な背景がありました。実は東大寺において「大仏造立」という国家的事業が進んでいたのです。大仏を鍍金(めっき)するためには金が必要。しかしその金が、当時、足りていなかったのです。そもそも当時の日本では、金の産出事例がありませんでした(だから大宝改元の一件は明らかに捏造なのです)。そんななかで百済王敬福による金の献上が実現したことになります。
この慶事は以下のようにも捉えられました。
「三宝(さんぽう)、神祇(じんぎ)、天皇霊(てんのうれい)の3つに感応(かんのう)して、国にとっての宝(金)が出現した」と捉えられたのです。ちなみに三宝とは仏教の教え(仏・法・僧)のこと。神祇とは天の神と、地の神のこと。天皇霊とは天皇の持つ霊力のことです。これらに「感応して宝が出現した」という意味が、天平感宝の「感宝」部分に込められています。
東大寺大仏は結局752年(天平勝宝4年)に開眼供養を実施。730年代~740年代にかけて続いた、疫病・旱魃(かんばつ)・飢饉などの社会不安を平定させる役割を担うことになりました。
――ということで今回は、経済的出来事を事由とするレアな改元について紹介しました。大宝、和銅、天平感宝のいずれも「日本の律令制度(=中央集権による国家体制)を確立するうえで非常に重要な意味合いを持っていた元号だった」ことが、お分かりいただけたのではないでしょうか。
参考:
『元号』山本博文、悟空出版、2017年9月
『元号 年号から読み解く日本史』所功・久禮旦雄・吉野健一、文藝春秋、2018年3月
『歴代天皇・元号事典』米田雄介、吉川弘文館、2003年12月など