はじめに

昭和時代、産科は男の職場だった

津田先生が医大卒業した昭和末期は、医大生女性率が10~20%であり、手術や当直の多い産婦人科は「男の職場」という雰囲気が漂っていました。女性医師に対しては「入局後2年は出産禁止」と教授が公言するのも珍しくありませんでした。1年目研修医は「大学病院で当直週2回+外病院当直アルバイト週2回」レベルの泊まり込み業務は当然とされており、「月の半分以上は病院で寝る」のは産科研修医として当然とされていました。当直室は和室で雑魚寝、夜中にお産があると先輩に蹴られて起こされました。

当時の大学医局には「トランク派遣」という用語がありました。教授の命令で、大学病院から地方の病院などに、若手医師が文字通り「トランク」一つをぶら下げて、1週間~数か月程度、出向するのです。当時の大学病院における教授の命令は絶対であり、津田先生は将棋の駒のように「来月いっぱい山形」などと命じられましたが、学生時代からインド放浪旅行などをこなしてきた津田先生にとっては、地方巡業はそれなりに楽しかったようです。出産祝いに米や銘酒を貰ったり、赤ちゃんを背負って駅まで見送ってくれるお母さんがいたり、多忙な中にもやりがいのある日々でした。

「母子死亡率低下」「何かあったら医者のミス」のジレンマ

時代は平成に移り、女子医大生率はジワジワ上昇しはじめ、産婦人科を目指す女医も増えていきました。また、昭和時代には「とにかく母子とも健康であればよい」とされていたのが、「患者の心に寄り添う」など満足度を求められるようになりました。産婦人科で「男性に内診されたくない」と主張する患者がいれば、昭和時代ならば一喝されて終了だったのに、「患者希望に沿うように」という通達がM医大でもなされ、新人産婦人科医の過半数は女性の時代となりました。

また、医学の発達にともない分娩中の母子の死亡率は減少する一方で「お産で母子とも安全なのはあたりまえ」という雰囲気が世間に広まり、「何かあったら医者のミス」とでもいうような医療訴訟が徐々に増えつつありました。この頃、津田先生の同期医師も死産した元患者から訴えられ、和解に持ち込んだものの消耗してしまい産科を辞めたそうです。