はじめに
2006年、産科医逮捕の衝撃
2004年に始まった新研修医制度により、若手医師の多忙科回避が顕著になりましたが、産婦人科に関しては2006年の産科医逮捕の影響が大きかったでしょう。福島県大熊町の県立病院で帝王切開手術後に妊婦が死亡し、産科医は業務上過失致死罪に問われて逮捕されたのです。この事件を契機に、分娩の取り扱いを止める地方病院が多数出現し、産婦人科希望者も大きく減りました。2008年には無罪判決が出た後も、分娩を止めた病院の多くは再開しませんでした。
この頃、北関東の病院に勤務していた津田先生も育休中の女医をカバーして1人で頑張っていたので他人ごとではありませんでした。若手医師が激減したので大学病院からの応援はなく、育休女医は育休明けに産科を辞めて健診センターに転職したそうです。
地方ドサ廻りに疲れ果てて
M医大でも2000年以降に若手女医が急増し、彼女らが妊娠出産する年頃となり、産休育休のしわ寄せは津田先生のような中堅男性医師の肩に重くのしかかりました。新研修医制度以降の世代は自分の希望は明言するし、労働基準法には詳しく、意に沿わない人事だとサクッと辞めるので、慢性的人手不足の産婦人科医局としては強く出られません。。子持ち女医の多くは東京残留を希望するので、津田先生の地方巡業は終わる見込みがありません。また、2006年の事件のように、地方でも医事訴訟が頻発する時代となり、その対策としての書類作成や会議は増える一方で、津田先生は部長として会議に出席しつつ、卒業後10年経っても下っ端としての書類作成にも追われています。
津田先生は東京勤務だった頃に後輩女医と結婚しましたが、奥様が妊娠してからは東京残留を強く希望するようになりました。「夫は地方病院巡業、妻は実家近くの都内でパート勤務」状態が何年も続いています。
東京のマンションで「家族一緒に暮らしたい」「パートで良いから自分の病院を手伝ってほしい」と強く訴えましたが、奥様は「子供の教育」を理由に提案を拒否し、津田先生の中で何かがガラガラと崩れてゆきました。