はじめに

温度によって性質が変わる高分子?

「タンパク質を残したまま、細胞シートをシャーレから剥がす」。この課題を解決したのが、「温度によって性質が変わる高分子」です。

高分子というのは、小さい分子を化学反応でたくさん結合させて作った、大きな分子です。小さなビーズ(小さい分子)をたくさんつないで作るネックレス(高分子)のようなイメージですね。

例えば有料化されたレジ袋、飲料水の容器であるペットボトル、今私のデスクに転がっている接着剤など、みなさんの身の周りには人間が作った高分子がたくさんあります。

そして、高分子の中には特別な機能を持つものがあります。例えば、おむつに利用されている高吸水性高分子や、環境問題の対策として研究が進む生分解性高分子(微生物の活動により分解される高分子)、有機ELディスプレイにも利用されている導電性高分子(電気を通す高分子)などはみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

これらと同様に「細胞シートがシャーレの底に貼り付いて困るよ問題」を解決した、温度が変わると性質が変わる高分子も「特別な機能をもつ高分子」の1つで、温度応答性高分子といわれます。

細胞シート工学に利用された温度応答性高分子は、32度より低い温度では水が結合し、大きく膨らみます。水と仲が良い状態です。しかし、32度以上の温度では結合が切れて水が離れていき、高分子はギュッと集まって小さくなります。水と仲が悪い状態です。

この高分子をシャーレの表面に、ナノレベルで均一に固定します。そうすると、シャーレの底は5度を境に、性質が変わることになります。32度より低いときは水と仲が良く、32度以上では水と仲が悪くなるのです。

では、この温度で性質が変わるシャーレ(以下、『UpCell』)を使って細胞シートを作ってみましょう。みなさんの想像力の出番です! まず、体温に近い37度で『UpCell』を使って細胞を培養し、細胞シートを作ります。このとき、『UpCell』の底は水と仲が悪く、細胞シートが貼り付いています。

そして、細胞シートが完成したら20度まで温度を下げましょう。『UpCell』の底は水と仲良しになるため、細胞シートと『UpCell』の底のあいだに、するすると水が入ってきますよ。この水のおかげで、細胞シートを傷つけることなく剥がすことができるのです。

興奮を隠せない工学と医学の融合!

私が「細胞シート工学のお話を書きたい!」と思ったのは、「貼り付けて治す」という細胞シート自体のすばらしさもありますが、それよりも、温度応答性高分子という「工学技術」と、それを治療に結びつける「医学技術」の融合で生まれた技術という部分に興奮したからです。

実際に、細胞シート工学を創出した先端生命医科学研究所には、東京女子医科大学と早稲田大学それぞれの先端生命医科学研究センターが入っており、医学・理学・工学が連携して研究を推進する拠点となっています。

エンジニアと医師が一体になって研究を進めているのです。1つの同じ建物のなかで、異なる学校法人の異なる学部が一緒に研究している施設は他にはありません。

実は工学部出身の岡野光夫博士。博士がアメリカの大学院のバイオエンジニアリングに留学したとき、あることに疑問を感じます。それは、半導体の研究をしている人にまったく異なる分野の生命科学や高分子化学を教えていたことです。そこで、教授に「そんなことに意味があるのか」と尋ねたときのことを、次のように述べています。

「(博士の疑問に対して学科長の教授は)『われわれは1世紀の、人類未来のライフサイエンスのフィールドを耕そうとしているのだ。従来の教育と同じ教育をしていては私たちのコピーをつくることしかできない。
その限界を越えられる人間をつくるには、われわれが教育されなかったコンセプトとテクノロジーを教えるべきだ』というのです。実際、それから10年たつと、アメリカの研究者は半導体と遺伝子を組み合わせた遺伝子チップを開発し医療に利用され始めた。日本では考えられない戦略的な人作りから始まる、無から有を生み出す挑戦でした」

1つの分野だけを見て行き詰まったとき、他の分野に目を向けることで道が切り開けることは少なくありません。私自身が、たくさんの研究者から聞いた言葉でもあります。

異分野が連携して新しいものを生み出していくスタイルは、もっと日本の大学が取り入れていくべきではないでしょうか。そして、これは大学に限った話ではなく、人生において行き詰まったとき、私たちが思い出すべき言葉かもしれません。

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