はじめに

偏差値秀才は敷衍することが苦手

「要約」と同じく重要なのが「敷衍」です。こちらはある文章を、その主旨に従って、自分の言葉で言い換えを行い、より詳しく、わかりやすく表現することです。

文字面を追うだけではなく、自分の頭で一度かみ砕いて、自分の言葉で表現する。ですから、まずしっかりと「要約」ができていることが前提です。

その上で、大事なポイントを別の表現で書き換え、論旨を展開していく。ここで大事になるのが、前にお話しした「行間を読む力」です。

行間を読むことで、文章のさらに奥深い意味を理解できれば、それを自分の言葉で表現することで、自然に「敷衍」が行われることになります。逆に言えば、「敷衍」ができない人は、行間が読めていない、つまりは「読解力」が不足しているわけです。

それだけでなく、「敷衍」は自分の言葉で表現するという点で、豊富な語彙力や表現力が必要になります。

ですから、作家や文章を書く仕事についている人は、敷衍する力が必要不可欠であり、それがあるからこそ職業として成立していると言えます。

まずはしっかりと「要約力」を身につける。その上で「敷衍力」を身につけるのが、正しい順番となります。この「要約」と「敷衍」ができることで、結果的に読解力は高まるのです。

その意味で、行間を読むことが苦手な偏差値秀才は、必然的に「敷衍」する力が弱くなります。逆にロジカルな能力は高いので、「要約力」は非常に優れています。するとどうなるか? 

彼らはテキストを短く要約し、それを自分の頭に入れた段階で理解したつもりになり、満足してしまいます。なぜなら、マークシート式のテストなら、それで満点が取れるからです。

彼らは言葉を単語として覚えはするのですが、文脈のなかで捉えることをしない傾向があります。その結果、行間を読むこともできないし、敷衍することも苦手ということになります。

「要約」はできても、行間を読むことができず、「敷衍」ができないと、人にやさしく説明することはできません。彼らが難しい言葉を使うのは、何かをごまかそうとしているか、本当は理解できていないか、どちらかということです。

夏目漱石の作品で読解力を上げる

「読解力」を身につけるには論文などの固い文章よりも、小説などの文学作品を読むことが力をつけることになることは、すでにお話ししました。

では、具体的にテキストとしてどんなものを選べばいいでしょうか?結論から言うと、明治の文豪である夏目漱石をお勧めします。

もちろん、他にもいい作家、作品はたくさんあります。しかし、漱石の作品は文章が非常に平易でわかりやすい。さらに、彼のテーマが近代自我の孤独と不安という、いまの私たちも共通に抱える普遍性を持っていることが大きい。

恋愛、人間関係、出世や成功、死生観……。一通り漱石の小説を読めば、近代以降の人間の葛藤や悩みは疑似体験することができるでしょう。

戦前、戦中、戦後から、現代にいたるまで、漱石の提示した文学的テーマは形を変えながらもずっと取り上げられているものです。

日本の文学が近代文学として生まれ変わったのは正岡子規によってだと、私は考えます。子規こそ、俳句や短歌、詩歌を現代の文学として脱構築し、同時に話し言葉を文字に昇華させた最初の人物です。

漱石は子規の親友でした。子規は若くして頭角を現し、自らの文学的立場を確立します。一方、漱石はノイローゼになったり、イギリスに留学して挫折して戻ってきたりと、ずいぶん回り道をしているのです。

漱石は、子規の文学的な価値を早くから理解していました。子規は俳句を近代自我の表現の一つとして捉え、その溢れる情熱の発露の場として雑誌「ホトトギス」を発行します。漱石はそんな行動的な子規に対して、ずっと畏敬の念を抱いていたのです。

子規はご存じの通り結核が悪化して、わずか35歳でこの世を去ります。漱石はその子規の遺志をつぐかのように、その後『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『明暗』『こころ』などの名作を次々に発表し、日本近代文学の父と言われるようになります。

それは、子規がやろうとしたことをより大衆化し、一般化したものだと言ってよいでしょう。ですから、明治時代の文章ですが、漱石の文章は非常に平易で、いまでも大変読みやすい。その意味でも、読解力のテキストとしてふさわしいと思います。漱石の作品を声に出して読み、ロジカルかつクリティカルに文意を理解し、「要約」や「敷衍」を行えば、おそらく相当の「読解力」を身につけることが可能になります。ぜひ、皆さんも漱石の作品に、もう一度触れてみてほしいと思います。

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