はじめに
失ってわかる存在
院長は次の派遣医師をM医大に要請しましたが、「希望者がいない」という理由で拒否されました。「ウチは県立病院で福利厚生バッチリだから、希望者は他にもいるはず」と、院長は他の医大にも打診しましたが全大学から拒否。民間の医師紹介派遣業者に相談すると「地方の産婦人科一人勤務は年俸3,000万円でも見つからないかも…さんてん」という返事で、院長の給与を上回る額を提案されました。
年間200分娩を扱う産婦人科はN病院の稼ぎ頭であり、このまま産婦人科休診になると赤字転落は明らかでした。日本中が深刻な産科医不足であることに気付いた院長は、津田先生に「そろそろ戻ってもいいぞ」とメールしましたが、返信はありませんでした。
数年後、東日本大震災の被害を契機にN病院は統廃合されました。
分娩2,000例経験から見えてきたもの
津田先生が分娩2,000例を経験した頃から、不思議な第六感が働くようになりました。足が浮腫んだ妊婦を「何か変だ」と入院させたら、そのあと血圧が急上昇してけいれん発作をおこした。すれ違った時の体臭で、妊娠糖尿病を発見した……などなど。
朴訥だけど真面目で安定した津田先生の仕事ぶりは仕事仲間には広く知られており、「N病院を辞めた」噂とともに多数の病院から仕事のオファーがありました。片っ端からパート依頼を受けたところ、あっさり3か月先までの予定が埋まってしまい、研修医時代のように再びトランク一つで地方の病院を渡り歩く日々が再開しました。しかしながら、産婦人科医不足の厳しさは20年前の比ではなく、当直料金も「平日10万、休日20万、交通費別」のようなオファーは珍しくありませんでした。