はじめに
経済成長が必要な理由
経済成長はなぜ必要なのでしょう。
人はみんな年を取ります。それゆえ、家族や社会は高齢者を養う必要があります。平均寿命が延びれば延びるほど、現役世代がその人たちを養わないといけない。さらに子供たちも育てないといけません。高齢者が安心して暮らし、子供たちを育てて社会を次世代に繫げるには、現役世代の収入が増えることが不可欠です。
そのためには付加価値、新しい価値が必要となります。それがないと収入の源泉になりませんから。
つまり前世代と次世代を支えるために必要なものは何かというと、それは「原資」なのです。そして原資はどこから来るかというと、経済成長です。
だから「ゼロ成長でもいい。いや、マイナス成長でもいいじゃないか。成長しなくてもいい。みんな静かに暮らして、それでいいじゃないか」というわけにはいかないのです。そうしたら、老人は姥捨て山に送り込んで早く安楽死させ、子供はつくらないとなってしまう。それしか選択肢はないのです。
隔絶された環境で、大人も子供も自給自足で生きるという方法もあるかもしれませんが、それでは子供をつくるのにも制限が出るでしょう。結婚もしにくくなるでしょう。長い間経済が停滞している日本は、そういう前兆というか流れにもうなってしまっているのではないでしょうか。
だから経済がある意味、実質成長率(物価変動の影響を除いた実質GDPで算出)で2%、名目成長率(物価変動の影響を除いていない名目GDPで算出)で3%という先進国の常識というか、このくらいは達成しないと厳しい。少子高齢化に対応できません。
ゼロ成長のままだと、日本国は滅びる。それは怖いから、外国人をどんどん入れなさい。中国人もどんどんいらっしゃい。中国の北海道の土地の買収も大いに歓迎ですよという動きが見られますが、こうなると、恐らくもう日本が日本でなくなるでしょう。
中国人が北海道の買収した場所に住みついてしまう。チャイナタウンとか中国人街がどんどんできる。中華料理を食べに行く「チャイナタウン」ではなく、ほんとうに中国人が住んでいるチャイナタウンです。そこでは「日本人と犬は入るべからず」とされてしまう可能性だってあります。近未来に中国人の住民が牛耳る地方議会が出てくるかもしれません。これを「日本」と呼んでもいいのでしょうか?
経済成長でチャンスが生まれる
マクロの経済成長がない、つまり経済のパイが大きくならないということは、チャンスがそれだけ失われることになります。とくに新規参入というか、これから社会にどんどん登場しようという意欲のある若者がチャンスを持てないということになります。
譬えていうと、マクロ経済は物凄く大きな競技場で、そこには誰でも―金持ちでも貧乏人でも、車椅子が必要なハンディキャップを持った人でも、入ってきて練習できるとします。ところが、なんらかの理由でその競技場のパイが小さくなると、立場の弱い人たちから締め出されてしまいます。それは、チャンスが失われていくということです。ダダダーッとシャッターを下ろされてしまい、なかにいられればチャンスはあるのですが、入ることすらできないというのが、マクロ経済がダメになった状態。
勤労世代が所得を増やすチャンスを持てないと、生まれた子供たちにしわ寄せが来ます。教育機会が非常にお粗末になる。金銭的に恵まれた家庭はしっかり塾に行かせたり、いろいろお稽古事をさせたり、家庭教師を雇うこともあるかもしれません。そうやってさまざまな教育機会が充実していきます。富裕層の子供たちはそういう環境で育てられるわけですから、非常に豊かな教育機会に恵まれるわけです。
人間というものにはいろいろ能力差があるといわれます。しかしながら、おぎゃあと生まれてから、人間の頭脳は環境によって決まる部分が非常に大きいわけです。人間の能力は天分の部分もないわけではありませんが、やはり環境に大きく左右される。
そういうわけで経済が萎縮した状態で放置しておくのは、人や社会の進歩に対して大変なマイナスになると思います。一種の犯罪ではないかとすら思います。
これはアメリカの友人から聞いた話ですが、アメリカ南部の農場、例えば大豆や綿花、砂糖など年に一回だけ収穫がある農場で、子供たちのIQを調べたそうです。すると、収穫が終わって「さあ、新しい苗を植えました」、そのあとはIQが上がったといいます。ところが収穫する数ヶ月前になると、農家は収入が少なくお金がない。そうしたら、子供たちのIQがものすごく下がっていたとのことです。2013年8月発行の、アメリカの科学誌『サイエンス(Science)』に掲載された、貧困が脳に与える影響についての研究報告では、貧困は人の知力を鈍らせる影響があるといいます。貧困は人の心的資源を枯渇させ、問題の解決や衝動の抑制といったことに対する集中力を減少させるというのです。
将来への希望に満ちて、「さぁ、どんどん前に行こう」というメンタリティになると、脳が活性化するのです。逆に閉塞状態になってしまうと、抑うつ状態になってしまう。
また、例えばAという家庭もBという家庭も大農場で、年1回大きな作物の収入が同じようにあっても、Aは父母とも非常に堅実で安定しているけれど、Bは父親がアル中でよく暴れる。でも母親がすごいしっかり者でなんとか家庭を支えているという世帯差や個人差はあるでしょう。そういう個々の単位での考察は必要ですが、経済全体、つまりマクロ経済が整っていない、もしくはどんどん小さくなっている場合、恵まれない家庭はますます追いこまれます。そうなっていると、個人、個人がどんなに努力をしても、ほとんど報われない。
業績によってばらつきがあったり、個人差があったり……勿論ミクロの次元ではあります。ただ、やはり非常に重要なのは、全体の条件、つまり万人平等の条件をマクロが決めてしまうということです。マクロが整っていない状況では、ミクロの条件が不利な人は出発点から困難な状況に置かれてしまう。
「それでも這い上がろうと、一生懸命頑張るからいいじゃないか」という考え方もありますが、しかし、全体の統計を取ってみると、明らかに恵まれない層が追いこまれている傾向が出てきます。経済というのはそういうものです。
だから私は「経済のパイが絶えず大きくなっていかないと、国家の未来がない」と言いつづけているのです。というのも国家は国民が支えるものだからです。とにかく経済を成長させないと国力は衰退します。このままでは日本は中国の属国、支配下に本当に飲み込まれる。若い人には希望がなく、少子化はますます進む。高齢者も養えなくなる。
でも日本には、政治家にも経営者にも、そして国民にも「経済が成長しないと国力がなくなり、滅亡するのだ」という危機感がありません。「経済を成長させることが何よりも大事だ」という感覚は国家としての本能であり、政治家として本能だと思うのです。その本能を取り戻さないといけません。