はじめに
選手が苦しいときは、指導者も同様に苦しい
こうなると私の指導の中でひとつの答えが出てきます。
「高校生に『自主性を重んじた指導』をしていても、一番鍛えなければならない時期にレベルを上げた練習をしなければ、やはり結果はついてこない」
自分の指導方針は間違っていなかったという確信です。しかし、同時にこうも考えるのです。
「ただし、何でもかんでも指導者が『ああしなさい、こうしなさい』と指図して指導するのもよくない。選手に考えさせる練習も取り入れていく必要がある」
要はバランスが大事だということです。厳しく締めるところは締める。一方では選手たちに考えさせて、苦しい局
面を乗り越えさせていくように仕向けていく。
選手が苦しいときというのは、指導者である監督も同じように苦しいのです。仮にシード校になって夏の予選を勝ち抜こうとすれば、東東京の場合は7つ勝たなければならない。甲子園に出場して1回戦から決勝まで勝とうとすれば、6つ勝たなければならない。つまり、夏に甲子園優勝を果たそうとするならば、13連勝しなければ栄冠にたどりつかないというわけです。
この間、どこかでひとつでも負けたらそこで終わってしまう。勝ち続けるためには幾多と訪れる苦しい局面を乗り越えなくてはならないのですが、選手任せの練習だけに終始してしまうと、結果を出すのが難しいということです。
自分の指導に自信を持つことは必要です。選手を指導するにあたって、「これだけはどうしてもやり通さなければならない」という信念があるからこそ、選手たちは監督を慕ってついてくる。一方で自分の指導に迷いが生じたときには、迷わず突き進むのではなく、一度立ち止まって大いに悩むべきです。
このとき大切なのは、「結論を急がずに、いろいろなケーススタディを見つけて分析すること」。複数の事例から「この場合はこういう結果になる」という傾向をつかみ、そこから自分の指導方針を軌道修正していく。そうすることで、指導者として殻をひとつ破っていくことにつながると、私は考えているのです。
前田三夫(まえだ・みつお)
帝京高等学校硬式野球部名誉監督。千葉県袖ケ浦市出身、木更津中央高等学校(現・木更津総合高等学校)・帝京大学卒業。木更津中央高等学校時代は三塁手として活躍するも甲子園の出場経験はなし。大学時代は4年の秋に三塁ベースコーチとしてグラウンドに立っただけで選手としては公式戦出場なし。練習を手伝っていた縁で1972年帝京大学卒業と同時に帝京高校野球部監督に就任。
1978年春の選抜高校野球で甲子園初出場を果たし、1980年春は伊東昭光投手を擁し準優勝。以後、練習場である校庭が(こちらも強豪となる)サッカー部と共用という恵まれない環境に長らくありながら、89年夏、92年春、95年夏と全国優勝3度の強豪チームへと育て上げた。同校野球部は高校野球ファンや国内メディアから「東の横綱」と呼ばれるほどの甲子園強豪校となる。
教え子となるOBに伊東昭光(元・ヤクルト)、芝草宇宙(元・日本ハム-ソフトバンクなど)、吉岡雄二(元・巨人-近鉄-楽天など)、三澤興一(元・巨人-近鉄-ヤクルトなど)、森本稀哲(元・日本ハム-DeNA-西武)、中村晃(現・ソフトバンク)、杉谷拳士(現・日本ハム)、山﨑康晃(現・DeNA)、原口文仁(現・阪神)、松本剛(現・日本ハム)、清水昇(現・ヤクルト)、タレントの石橋貴明(お笑いコンビ・とんねるず)など多数。2021年8月30日、監督を退任。現在は名誉監督としてチームを支え続けている。
いいところをどんどん伸ばす 著者 前田 三夫
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