はじめに

「道徳なき経済は犯罪」二宮尊徳

ある程度年配の方なら、小学校の片隅に置かれていた「二宮金治郎」(にのみや・きんじろう)の銅像を覚えているかもしれません。薪(まき)を背負いながら本を読む少年の銅像のことです。

大正以降「勤勉」や「奉公」などの象徴として全国の小学校に建てられたこの銅像ですが、最近では「交通安全の観点で問題がある」「金次郎がその行為を行った事実が確認できない」などの理由で徐々にその姿を消しているそうです。

そんな二宮金次郎こと二宮尊徳(「たかのり」または「そんとく」、1787年~1856年)は「報徳思想」と呼ばれる思想を説いたことで知られます。これは、ざっくりいえば、至誠・分度(ぶんど)・推譲(すいじょう)・勤労により「道徳と経済の調和」を図ろうとする教えでした。これを「道徳経済一元論」ともいいます。

その思想を語るうえで最も象徴的な言葉は「道徳なき経済は犯罪」というものでした。文字通り、道徳のない経済活動を戒めた内容です。しかしこの言葉には続きもあります。改めて全文を記すと「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」と言っているのです。つまり、経済の伴わない道徳は単なるお題目にすぎない、実質がないとも述べているわけです。

これは「企業の本来的事業を正しくまっとうする事こそCSRの真髄である」という現代的な思想にも通じる考え方かもしれません。

「先義後利」下村彦右衛門

1717年、現在の京都市伏見区に「大文字屋」(だいもんじや)という名の呉服店が開店しました。現在では持株会社J.フロントリテイリングの傘下にある百貨店「大丸」のルーツにあたる店です。

この大文字屋の創業者である下村彦右衛門(しもむら・ひこえもん)が1736年に定めた経営理念こそ「先義後利」(せんぎこうり)でした。これは元々、中国の戦国時代末期の思想家・荀子(じゅんし)の言葉で「先義而後利者栄(ぎをさきにして、りをあとにするものはさかえ)、先利而後義者辱(りをさきにして、ぎをあとにするものははずかしめらる)」を略した表現です。

これは「道徳を優先して利益をあとにした者は栄誉を与えられ、利益を優先して道義をあとにした者は軽蔑される」という意味。実際、下村彦右衛門は、歳末に貧困者に対して食べ物を提供するなどの社会貢献活動を行ったといいます。

1837年に「大塩平八郎の乱」として知られる百姓一揆が起こった際には、他の商家の多くが焼き討ちに遭ったなか、大文字屋はその被害にあわずに済みました。この出来事について、大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じたとする噂話も伝えられています。噂の真偽は不明ながら、当時の大文字屋(大丸)に義商のイメージが存在したことは確かであるようです。大丸は現在も「先義後利」を企業理念として掲げています。

おまけ:家訓のブームと商道徳

江戸編の最後に「おまけ」を。以上で登場したいずれの概念も、江戸時代の中期(1700年代)以降に登場していたことにお気づきでしょうか。実はこれには大きな理由があります。

江戸時代の経済は、前期(1600年代)に発達して、中期(1700年代)に停滞して、後期(1800年代)に衰退する経緯を辿っています。その発達期と停滞期の間(はざま)にあたる元禄時代(1688年~1704年)に、現在でいうバブルのような経済現象が起こったのです。

このバブル現象は、文化的にさまざまな果実をもたらした一方で(人形浄瑠璃や元禄歌舞伎など)、投機的な商売や、利益至上主義的な商売、政治と経済の癒着などの悪影響ももたらしたのです。そしてその種の商家が、バブル崩壊で次々と没落したのです。

かくしてバブル崩壊後の商家は、次々と「家訓」を制定するようになりました。従来、家訓は武家が定めるものでしたが、この時代から商家も家訓を定めるようになったのです。そしてそのような家訓の中で、商道徳の大事さも盛んに語られるようになったといいます。実際、前述した「先義後利」も、下村家の家訓でした。

現代の日本企業が2000年代の不祥事多発を背景にCSRに注目するようになったように、江戸時代の商家もバブル崩壊を背景に「家訓」に注目するようになったともいえます。そして前述した「商道徳の言葉」もまた、バブル崩壊後に登場したわけです。歴史は繰り返すものなのかもしれません。

次回後編は、明治以降の「商道徳の言葉」を取り上げます。

参考文献:
「[新]CSR検定 3級 公式テキスト」(松本恒雄監修、オルタナ、2014年)
「江戸商家の家訓に学ぶ 商いの原点」(荒田弘司、すばる舎、2006年)
「三方良し 第9号」(AKINDO委員会、1998年)など

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