はじめに
ワイプで人の表情を抜くのは何のため?
その流れのなかで起きているのが、ときに過剰に思える日本礼賛ムードだと思います。テレビの番組でも、相変わらず日本の伝統文化や科学技術などを外国人に紹介し、彼らが驚き、賞賛する様子を映すという、日本礼賛番組がゴールデンタイムに流されます。
このような日本礼賛ものは、最近はとくにYouTubeなどに比重が移ってきているように感じます。「中国人が日本のラーメンのおいしさに絶句!」「日本の街の美しさに驚く欧米人」といったタイトルの動画が目立ちます。
あたかも、日本人が他国民に比べて文化度が高く、手先が器用で繊細で、創造的なセンスに溢れた国民であるような気持ちになる。
ですが、ちょっと目を転じれば、ドイツやフランス、イタリアやスイスなどをはじめとして、多くの国々にも、モノづくりの確固とした歴史や伝統があり、古くからの地場産業が栄え、世界的なブランドが出ている地域がたくさんあります。
食べ物や料理も、日本では味わえないおいしいものが世界の各地にたくさんあり、私たちが知らないものがまだまだあるはずです。
それらに目を向けようとせず、十分な比較や検証もなく、自分たちの文化が優れている、特殊だと考えるのは単なる思い込みで、自己満足的な妄想に近いのです。
テレビの話が出たついでに、もう一つ。ワイドショーなどで、出演者たちの表情をワイプ(一つの画面を片隅からふき取るように消していき、その後に次の画面を現わしていく画面転換の方法。転じて、画面の一部分に小窓のような別画面を表示する方法を言う)で抜くことがいまや当たり前になっています。
悲惨なニュースには悲しい出演者の顔を映し出し、楽しい話のときには笑顔が映る。おそらく30年ほど前にはなかった映像手法だと思います。
果たしてそのような映像が必要かと私などは思いますが、ワイプで誰かの表情を確かめないと安心できないということなのでしょうか。
一つの出来事に対する反応や判断は人それぞれですから、いろんな反応、表情があったっていい。ところがワイプに出てくる表情は、皆同じです。もし、心和むような話のときに苦虫をかみつぶしたような表情をしていたら? きっとツイッターなどでさんざんに叩かれるでしょう。
ある出来事に対して、誰もが同じ感覚、同じ感情を持たなければいけない。そんな同調圧力のようなものを感じるのは、私だけではないと思います。
皆が笑っているときにつまらなそうにしていたり、皆が悲しんでいるときに平然としていたりするのを許さない。いまの日本の社会の同調圧力、異質なものを認めないという傾向が表れているようにも思えます。
つまり、異質なものに対する耐性が低いということでしょう。自分と異質なものに対する恐怖心が、かなり強くなっているのではないでしょうか。
ナショナリズムは読解力の欠如から生まれる
じつは異質なものを排除しようとし、同質性を求めるのは、人間が社会を維持する上で半ば必然的、不可避的に身につけてきた習性でもあります。とくに近代以前の村社会にあっては、それが顕著だったのではないでしょうか。
近代以降、産業社会が到来して封建的なシステムが崩れるなかで、村社会もまた解体していきます。多くの人たちが家や土地、地域の紐帯から外れ自由になると同時に、工場労働者として都市に流れ込みます。
農村型の村社会から、都市型の大衆社会に変化するなかで、村社会的な同調圧力はいったん影を潜めたかに見えます。
しかし、さまざまなつながりや紐帯から解き放たれ、一見自由になった人々は、不安と孤独に向き合うことになります。その不安と孤独を解消し、もう一度つながりと連帯感を取り戻すために、人々は文化的同質性を再び求めるようになる。マスメディアの発達がそれを加速させていきます。
アーネスト・ゲルナーという英国の社会文化学者は『民族とナショナリズム』(岩波書店)という本のなかで、ナショナリズムがどのようにして生まれるか、そのメカニズムを解き明かしています。
彼によれば国民国家が誕生し、産業社会が到来することで、自由な民が増える。すると先ほどの流れで、人々は文化的同質性を強く求めるようになる。それによってナショナリズムが半ば必然的に誕生してくると解説しています。
国家は大衆の文化的同一性を煽ることで、バラバラになった個々人を再度統合し、さらに産業社会、資本主義の発達によって起こる貧富の格差による不満と分断を、それによって解消しようとします。
簡単に言えば、他の国家の脅威を喧伝することでナショナリズムを高め、そのなかで国内の不満を外に向けるわけです。
ゲルナーの指摘するナショナリズムのメカニズムは、まさにいま私たち現代社会が直面している問題だと言えるでしょう。
しかも、いまやマスメディアだけでなく、インターネットやSNSといったソーシャルメディアが、それをさらに加速させているのです。
日本もまた、狭隘なナショナリズムに扇動され、いたずらに他国を敵対視し、自国の歴史を絶対化する動きが強まっているように思います。
問題はそのなかで、他者の立場や価値観を全く認めようとせず、自分たちの立場と価値観、論理だけで物事を判断し進めようとすることです。その意味において、現代のナショナリズムもまた、「読解力」の欠如から生まれていると言えるのです。
「読解力」の欠如によってナショナリズムが生まれたのか、あるいは狭隘なナショナリズムに染まるなかで、思考が頑なになり「読解力」が落ちたのか? ニワトリが先か卵が先か? おそらくその両方なのだと思います。